TATTOO MEANING
鬼若丸のタトゥーデザインの意味
鬼若丸の鯉退治のタトゥーデザイン
後に武蔵坊弁慶となる鬼若丸が、村人を悩ませていた巨大な暴れ鯉を退治する「鬼若丸の鯉退治」のタトゥーデザインや意味を紹介します。
鬼若丸とは、武蔵坊弁慶の幼少期の名前とされています。
鬼若丸は、お母さんの胎内に18カ月もいたとされ、産まれてきた時には髪は肩まで伸び、歯は生えそろい、通常の赤ん坊の3倍位の大きさがあったそうで、鬼の様だと言うことでその外見から「鬼若」と名付けられたと言われています。
その後、天台宗の総本山である比叡山延暦寺に預けられます。
鬼若の様な少年修行僧は「稚児」と呼ばれ、女人禁制の寺院では男色の対象とされたと言われており、女性の様な着物を着ていたとされます。
天台宗では稚児の名前に「~丸」と命名する儀式の後、観音菩薩と同格とされ神聖視されたそうですので、比叡山西塔に預けられた鬼若も「西塔鬼若丸」と呼ばれる様になります。
「鬼若丸の鯉退治」のタトゥーデザインでも女性物の着物を着た鬼若丸が描かれますが、比叡山西塔で暮らす鬼若丸は幼い頃から手が付けられない程の暴れん坊で他の僧達も困っていたそうなので、男色の対象とされていたかどうかは疑問です。
暴れん坊の鬼若丸ですが、心優しい一面もあります。
比叡山延暦寺近くの池に巨大な暴れ鯉がおり、日ごろから人々を困らせていたそうです。
それを聞いた鬼若丸は単身で池に飛び込み、短刀一つで見事退治したそうです。
その場面を描いたのが、「鬼若丸の鯉退治」です。
鬼若丸から武蔵坊弁慶へ
鬼若丸の勇敢さなどは認められず、乱暴ばかりする鬼若丸に他の僧たちは困り果て、ついに鬼若丸は比叡山を追い出されてしまいます。
追放された鬼若丸は自ら剃髪し、「武蔵坊弁慶」の名乗ったと言われています。
この「武蔵坊弁慶」と言う名前の由来には諸説あります。
一説には現在の埼玉県や神奈川県一帯はその昔「武蔵国」と呼ばれており、腕は立つが乱暴者が集まる地域だったそうで、そう言った乱暴者は「武蔵坊」と呼ばれていたそうです。
また昔に比叡山延暦寺の西塔にいた「武蔵坊」と言う悪僧がおり、その名前を取ったと言う説もあります。
そして父親の弁しょう(または弁心)から一字とり、比叡山延暦寺の師匠である西堂桜本の僧正「かん慶(くわん慶)」から一字取ったと言う説があります。
その後は千本の刀を集めようと悲願を立て、999本まで集めるのですが1000本目に目を付けたのが源義経です。
義経との闘いに敗れた武蔵坊弁慶は、一生の忠誠を誓い家来となったと言われているのはよく知られていますね。
当タトゥースタジオのある大阪の三大祭りの一つでもあり、日本三大祭りの一つでもある「天神祭」では、船渡御と呼ばれる神事が行われます。
船渡御を迎えるため沢山の船が合流します。
その中に神をお迎えする御迎え人形を乗せた船があります。
御迎え人形は最盛期の江戸時代の頃には50体以上の人形があったそうですが、現存するのは16体のみだそうで、その中に「鬼若丸」の人形もあります。
手の平を前に突き出して歌舞伎の様なポーズをとっています。
綺麗な着物が印象的です。